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創業ストーリー

1994年~ 社会人黎明期:会社員時代
幼少時の池野社長

私は大学卒業後、約3年間、システム開発会社の営業職として仕事をしてきました。工学部を卒業したにも関わらず、なぜ「営業職」を選択したのか、しばしば聞かれることがありますが、私にとってその選択に全く違和感はありませんでした。両親が営む大阪の小さな文具店の長男として生まれ育った私にとって、「商売=営業」という方程式しか持ち合わせていなかったので、営業職に就くことは自然なことでした。私の社会人1年目の7月、当時は複数の営業課長が欲しい新入社員を選んでいくという方法で配属先が決められていました。後に聞いた話ですが、私は同期の営業社員の中で、最後まで選ばれなかったということです。そして、営業マンとしての初受注の時期も同期生の中では一番遅く、彼等から「オマエの初受注は難産やな~」とよく揶揄されていました。

私の社会人としての人生はそんな惨めな体験から始まりました。しかし私は、持ち前の楽観的な性格と内に秘めた闘志でそんなプレッシャーも跳ね除けながら、僻まず妬まず嘆かず、常に前向きに、飛び込みによる新規開拓営業に明け暮れていました。その後、貯まりに貯まった名刺の山からリピートコールを繰り返した結果、受注案件が大量に発生することになりました。今から思えば、知らず知らずのうちに潜在顧客のダムを作っていたのです。お蔭様で2年目からはトップセールスマンの一員となり、退職するまでの約2年間は毎月のように優秀な営業マンとして表彰され続けることになりました。

営業マンとしての実績も上がり、同時に周囲からも信頼されてくると、自信もヤル気も増し、仕事は更に楽しくなっていきました。そのような会社員として絶頂の時期に、両親から「文具店の後を継いで欲しい」との依頼を受けることになるのです。それまでも何度かは断っていましたが、今度ばかりは断れない様子があり、最終的に私が折れて腹を括ることにしたのです。

1996年~ 人生転換期:月給10万円スタート 

1996年11月26日、図らずして大阪の小さな文具店の経営に携わることになりました。「企業30年説」という言葉がありますが、偶然にもその年は創業30年目に当たる年でした。当時の全従業員数は、父・母・姉・配達員2名の合計5名でした。

しかしながら、営業マンとしての経験しかない私に一体何ができるのか?両親は私に何を求めているのか?と考えるのも束の間、衝撃的な事実が明らかになったのです。約8,000万円の長期借入金があるにも関わらず、赤字決算の自転車操業で単月赤字も長く続いていることが判明しました。私の両親は、バブル期にも大きな投資をせず堅実に経営をしてきたので、バブル崩壊後も致命傷になるような大きな傷は受けませんでした。

その甲斐あって何とかバブル崩壊後の数年を乗り越えてきたのですが、世の中のOA化の波に完全に乗り遅れ、既に文具店はジリ貧の茹でガエル状態となっていました。また5名とも業績に見合った給料ではなく、長期借入金を食い潰しながら生活していたのです。そのように倒産もしくは廃業寸前という環境の中、私が入社して最初の仕事は、両親と実姉の給料の見直しを行うことでした。いわゆる聖域であり、26歳の私には非常に高いハードルの仕事でした。

3名には減給に関して納得はしてもらえなかったものの何とか妥協をしてもらい、その代わり当時独身であった私の月給は10万円にすることを自分自身で決めました。会社員時代には年収500万円あった給料と比較すると、実に76%DOWNです。ここでも私の楽観的な性格がそうさせたのかもしれません。「聖域に手を付ければ、怖いものは何もない、失うものも何もない」と自分自身に暗示をかけ、そこから「小さな文具店の再建計画」を一人で練り始めたのです。

1997年~ 文具店再建期:病院・学校法人

「trial and error」で試行錯誤を重ねた結果、大阪府下にある全ての病院と学校に訪問しようと考えたのです。考えた理由としては三つあります。
一つ目の理由は、商材が文具しかないのでそれを大量に販売しなければ収支が合わないこと。
二つ目の理由は、飛び込み営業では門前払いに会いがちな受付を病院や学校であれば突破しやすいと感じたからです。
三つ目の理由は与信管理です。公な病院や学校に貸倒れに合う確率は極めて低いと考えたのです。全て前入金というわけにはいきませんが、基本的に売掛債権が増えたとしても未回収の心配をする必要は無いに等しいと考えていました。こちらは資金繰りさえ気にかけておけば、決まった期日には確実に入金していただけるのです。

一般企業への法人営業も考えましたが、私の文具店の立地が郊外にあり、オフィス街である大阪市内まで文具を配達するとなると非常にアクセスが悪かったのです。加えて一般企業は、売掛回収条件も懸念材料としてありました。病院と学校への営業を開始する前に、事前準備を怠ってはならないと感じ提案資料作りを始めようとしましたが、私の勤める文具店にはパソコンやプリンターは愚か事務用デスクやチェアですら存在しなかったのです。それまでどうしていたかというと、見積書や納品書、請求書はすべて手書きが当たり前、コピー機(コピーサービス用)の上がデスク代わりであり、皆が立ったままで作業を行っていたのです。

まず私が営業活動前に行ったことは、前職の後輩からパソコンとプリンターを安価で調達したこと。お客様から不要になったデスクやチェアを譲ってもらうことでした。そもそも文具店内には執務スペースも無かったので、店内の一部を自分たちで改装し、クロスや床材を張り替え、高さや幅も不統一な旧規格の4台のデスクを並べ執務室を完成させました。チェアは身体を動かすたびに、「キィーキィー」と音がしましたが、そもそも廃棄処分をするようなシロモノ、音なんて気にしている余裕はありませんでした。そんなこんなで事前準備を完了させ、会社員時代と同じく連日の飛び込み営業による新規開拓をスタートさせたのです。その戦略が功を奏して4年後の売上高は飛び込み営業開始前の約2倍の2億円となり、新たに2名の営業マンの増員にも成功したのです。

2000年~ 事業多角化模索期:初めてのオフィスレイアウト

ある日、新規開拓した大病院の購買担当課長様から何の知識もない私に一室(約15坪)のオフィスレイアウト変更について相談を頂いたのです。

もちろん当時は、設計者もデザイナーもいませんでしたのでお客様のご要望をしっかりお聞きした上で、私の手書きでオフィスレイアウトを作成しました。そのレイアウトを非常に気に入っていただき運よく受注になりました。さらにオフィス家具まで新調してくださったのです。

当時インターネットは普及前で、CADソフトも今のような汎用性のあるものではなくハイレベルなものばかり、簡単に小さなオフィスのレイアウトをしてくれるような会社は今のように存在しませんでした。「この仕事は面白い、そもそも文具を何百万円も購入していただこうと思えば、ボールペンを何本?ノートを何冊?消しゴムを何個?」という計算をしてしまったくらいです。「よし、これを事業に取り入れよう!」まずは既存顧客(病院・学校)に宣伝をすることから始め、なるべく経費をかけないようにして小さなスタートをきったのです。

2002年~ 経営理念制定期:従業員の離脱、松下幸之助翁との出会い

第二創業から6年後、売上も順調に伸び、売上高3億円にもう少しで手が届くという頃、1人ずつ堅実に採用してきた従業員が「あなたにはついていけない!」と1人、そしてまた1人と会社を去っていきました。

その当時の私は、何の理念もなく「ただ、売上を上げて儲けること」しか考えていなかったように思います。そして全従業員数は、一時的な配達員2名を含む、両親、実姉と私の原点に戻ることとなってしまったのです。その当時よく従業員に対して使っていた言葉は、「オレに出来て、なぜ貴方にはできないの?」「オレの言うことを聞いていれば間違いはない、言う通りにやっていればいい!」「違うやろ、もっと頭を使わんかい!」「なんでやねん!」などなど、あの当時を思い出すと否定語のオンパレード。恥ずかしいセリフばかりであり、何の勉強もしていないのは私自身だったのです。

そんなことにも一切気づかず、鈍感であった私は「辞めたいヤツは辞めろ、去る者は追わずや!」と自己の反省の欠片もなく平然と仕事をしていました。そんなとき、たまたま書店で「松下幸之助」の書籍を手に取りました。経営で気になるキーワードを見つけたのか、「指導者の条件」というタイトルが気になったのかどうかは忘れてしまいましたが、その書籍を購入することにしました。本書では「指導者の条件」として102項目をあげており、前書きの中で翁は、「一つの国でも、優れた指導者がいれば栄え、指導者に人を得なければ混乱し、衰えていきますし、会社でも、社長次第で良くも悪くもなります。会社の中の一つの部や課にしても、その部長なり課長の良し悪しで、業績が全く変わってくるわけです。」と書いてありました。私は本書を自らの座右の書として、折に触れ102項目を何度も何度も読み返し、自分を正す資としていましたが、読む度に教えられ、反省させられることが多く、良き指導者への道ははるかに遠い道のりであるという思いが益々深まるばかりでした。

故に組織の大小を問わず、指導者の立場にある人はそうした自分の責任の重大さをよく認識し、自分の在り方について絶えず反省、検討しなければならないと思うようになったのもこの頃からでした。松下幸之助翁との出会いにより、「従業員離脱の原因は彼等にあるのではなく、自分自身にあるのだ」と自覚しそして深く反省しました。それからというもの、新しく入社した従業員の皆様にも決して驕らず謙虚な姿勢で接し、翁のモノマネで教育をするようになり徐々に私のことを理解し、心の扉を開けてくれるのと同時に成長していってくれたのではないかと今では感じることができるようになりました。以後、書店に頻繁に通うようになり、翁の書籍を購入しては、それをむさぼり読むようになったのです。夢中になり、気が付けば朝まで読んでいた日も多くありましたが、お陰様で腹の底から改心し「従業員あっての会社、従業員がいてくれているからこそ私も仕事をすることができる、そもそも私自身が生きているのではなく、生かされているのだ」という考え方を持つようになりました。そこから、「会社は誰のものか?」「何のために働くのか?」「何のために生きるのか?」ということも更に真剣に考えるようになったのです。

同時に、翁の勧めで経営理念の必要性を認識し、まずは全従業員のために経営理念の策定を誰にも相談することなく一人で取り組んでみることにしました。とは言うものの、経営理念はどのようにして作ればいいのか・・・。まずは、書籍とインターネットで調査しようと試みましたが、時代が時代、今のようにインターネットでは検索不可能ということで、書店での立ち読みで一通りの学習をしました。基本的な価値観や会社の存在理由を書き出し、それを頭の中で整理し、社是・社訓も考えました。その時、半年をかけて原型を作成し、そこから5年程の時間をかけて何度かの改訂を行い、現在の経営理念体系をつくりあげることができたのです。特に心構えや行動基準に関しては、社会人として何が大切かというよりも、まずは一人の人間として何が大切で何が必要でどのような考え方でいることが周りの人々を幸せにできるのかということに焦点を置いて考えました。私たちは現在、この経営理念体系を携帯し、判断に迷いが生じた際にはこれを判断基準としているのです。

2003年~ 事業多角期:集客WEBサイト、コピー機レンタル

元々は文具で新規開拓をした既存顧客へのオフィスレイアウトサービスPRも一巡し、特に病院に関しては言えば予想を上回る需要があり、案件の発掘作業から始まり「ヒアリング→提案」を繰り返し、受注に至れば「手配業務→納品および工事」そして売上債権回収を行うという業務に多忙を極めました。こちらは小さな零細企業でお客様からは厳しい支払条件を提示されることも少なくはありませんでしたが、熱意を持って交渉してできるだけ支払サイクルを短縮していただいておりました。

取扱いサービスは、事務室内の改装、クロスやカーペット張替、壁面塗装、家具やカルテ保管庫の調達、看板製作、造作家具、新病院建設やクリニック開業に伴う新規家具の選定および調達など。特に病院でよく使うロビーチェアや応接イスの生地張替サービスは大当たりした!この年の5月、後に事業の柱となる集客WEBサイトを開設しました。コンテンツは、オフィス設計デザイン事業に加えて「無料のコピー機レンタル」を付加価値サービスとして盛り込みました。現在は事業部門を閉鎖し、他社へ譲渡してしまいましたが一時期は最高で単月200万円の利益を稼いでくれていた事業です。

しかし私は「コピー機レンタルの事業でNo1になることは難しい。餅は餅屋、運よく先行者利益は獲得したが長くは続かない、必ず参入企業が増え、いずれ当事業は衰退するであろう」と考えていました。私はこの事業を「ダム」と定め、「このダムに水が溜まっている期間を3年と仮定し、その間にオフィス設計デザイン事業を主軸にしよう!」と心に決めました。しかし、この当時の日本経済の景気加速は衰えを生じなかったのです。コピー機レンタル事業は、最終的に利益こそピーク時の三分の一になってしまったものの、事業売却までの6年間はダムの役割を十分に果たしてくれました。

そのダムを利用して、オフィス設計デザイン事業を主軸にするために、今までのような付け焼刃ではなく新たに業界営業経験者を採用したことで、オフィスファシリティの専門的サービスを提供することが可能となったのです。引き続き、新規の集客活動は私の専任ではありましたが、新たにWEB集客という革新的な方法を取り入れることができたことは大きかったです。当時のWEB製作会社の社長様に、「集客におけるスーパーセールスマンを一人採用するのと同じくらい価値あるホームページをつくりましょう!ホームページは完成すればそれで終わりではなくそれはスタートであり、人を育てるのと同様に手塩にかけてください」と言われたことを思い出しました。確かに、完成度の高いホームページの威力はスゴイ!

2005年~ 事業草創期:8坪のオフィス開設
事業草創期

「無料オフィスレイアウト」というコンテンツを売りにした集客WEBサイトが当たり、営業活動をしなくてもホームページを通して手に余るほどの仕事が入ってくるようになりました。これを機に、大阪市内のオフィス街に8坪のサテライトオフィスを開設することにしました。それが現在の大阪オフィスのスタートであり、その時に初めて設計デザイン経験のある女性スタッフ1名と男性の営業経験者1名を中途で採用し、私を含めて4名で再スタートをしたのです。

しばらくすると8坪のオフィスは手狭になりはじめ、近くの30坪程のオフィスへ移転することを決めて8坪のオフィスで採用活動を行いました。今のように人材紹介会社に依頼できる余裕もなかったので、一番コストのかからないインターネットを活用し、採用広告を打ち出しました。面接エントリーはあるのですが、良い人材であってもなかなか採用までには至りませんでした。そもそも辞退者の方が多かったのです。更には、予定の面接時間になっても来ない人も何人かいました。6階のオフィスから下を覗くと、求職者らしき人が帰っていくのがわかることもありました。

最初のオフィスは繁華街の雑居ビルで、1階には飲食店があり階段の踊り場にトイレ・・・。薄暗い廊下には灰皿が置いてあり、そこが喫煙スペースの様なグレードでオフィスをデザインする会社イメージとのギャップが大き過ぎたのだと思います。 結局、その場所では1人も採用できず、移転をしてから採用活動を行いました。

2006年~ 事業成長期:スターティア社との出会い

大阪のみを拠点にしているのに変わりはありませんでしたが、順調に業績も上がり仕事の質・量ともに向上していきました。先代が残した負の遺産である借入金もほぼ全額完済できる目途が立ったのはこの時期です。

その当時は、東京に本社がある企業が大阪に支社や支店、または営業所を開設するという依頼が多くありました。しかし、ここで大きな問題が浮き彫りにされました。商談の提案段階まではいいのですが、最終決裁になると東京本社に稟議を上げなければならない企業がほとんどであり、その際に物言いが入り、東京本社と取引のある同業他社が横から商談に割り込んでくるという案件が多く出てきました。これでは、我々のスタッフのモチベーションが下がってしまいます。

それほどの拡大志向ではありませんでしたが、私たちの事業領域では東京に拠点を設けることの重要性を強く感じるようになり、改めて東京進出時期について綿密に計画することにしたのです。とにかく忙しい毎日であった記憶はありますが、あまり詳しく覚えていないというのが正直な感想です。3つのWEBサイトからの集客に加え、私個人の足を使った集客活動、発生した案件のディレクション~初回訪問、小規模案件は自分で手書き図面を作成、若年層のOJTも兼ねてのプレゼン提案、お客様とのやり取りを何度か繰り返す。成約案件の発注業務、納期確認、現場監理、入金管理など。それを何度も何度も繰り返す毎日でありました。

そのような環境の中、大阪本社に1本の電話が入ります。その相手は、新宿に本社を構える東証マザーズ上場企業であるスターティア社(現:東証1部上場3393)の経営戦略室である。「御社とアライアンスを組みたい。大阪支社長(取締役)がまずは挨拶に行きたいので、少しだけお時間が欲しい」という東京からの電話によるアポイントメント依頼に対して、私は「我々のような大阪の零細企業に東京の上場企業の偉い方が来られても御社にメリットないと思いますよ」と対応しました。電話口の経営戦略室の担当者からは「御社のことは一定の調査済みです。私たちは本気なので!」という返答、私はその一言に感動し、お会いすることにしました。

オフィス環境のワンストップサービスを生業としている当社として、通信ネットワーク、OA機器、ビジネスフォンを扱っているスターティア社は広域では競合と位置付けておりましたが、よくよく話を聞いてみると、協力会社(下請け)に依頼している当社と比べて、圧倒的に優位性のある提案をスピーディーに展開していると感じ、「お客様にとって何が大切かと?」という自分の判断基準により業務提携を結ぶことにしたのです。

2009年~ 事業拡大期:選択と集中

売上高5億円到達を目の前にして、米国の金融危機を発端にした未曾有の世界不況というショッキングな出来事が起こりました。しかし以前から予定していた通り、2009年3月1日に東京オフィスを開設しました。大阪から3名を連れ、私を含めた4名で港区赤坂1丁目の40坪のオフィスビルでスタートをしました。

積極的に行動してみることで、道は開けるとでもいうのでしょうか。
以前から提案を受けていた当社への出資について、スターティア社を引受先とする第三者割当増資を行い、当社発行株式総数の保有比率によりスターティア社の持ち分法適用関連会社となり、より強固な資本業務提携関係となりました。

経営に携わるようになって18年、東京オフィス開設と同時に役員陣の刷新、「選択と集中」による文具事業からの撤退を行いました。それは事実上、両親に対する引退勧告をも意味することになりました。「家族を優先するか、全従業員の幸せを追求するか?」「私は親不孝者なのか?」「そもそも会社は誰のものなのか?」判断基準を明確にしなければ決断ができない内容でした。

26歳から経営に携わるようになり私を悩ませる問題事項は数えきれませんが、現在でも判断基準が定まらない場合は中国古典を参考にするようにしています。私の周りには経営者のお手本がいませんでした。また良き師匠も先輩もいませんでした、何でも一人で考え、何でも一人で解決してきたのです。当時、壁にぶつかった時に私の拠り所にしていた「松下幸之助の本」と「中国古典」は今でも私の羅針盤的な役割を果たしてくれています。この時も同様にヒントを中国古典の中に求め、決断したのです。

そのような背景があったからこそ、私は、従業員みんなが安心して喜んで働いてくれるような会社にしたいのです。更には広く社会から信頼と尊敬を受けるような立派な会社にしたいという気持ちがより一層強くなったのです。このような経験から経営者である私は、まずは自分が率いる集団。すなわち全従業員の皆様を幸福にする責任があると経営の基本目的に記し、自分自身の心に誓ったのです。

当社の社名の由来でもある『More Advanced Consulting』の実現に向けて、フィロソフィー(ビジョン・ミッション・バリュー)を追求することにより、これからも企業の存在意義をもっと明確にしていきたいと考えています。

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